今日は「
安曇野の庭」で庭木の剪定。
建物内部からの眺め、庭を楽しむ上で最も重要なビューポイントとなる、北アルプスを望む借景を美しく魅せるための、生垣や高木の剪定です。
岡本 太郎 「日本の伝統」中世の庭 より引用。
大自然の景観をまっこうから受け入れる。しかもそれを受け止めるために、なにかしなければならないとしたら、小細工はやめて、単純で強靭な手をうつ以外にありません。
人間における抽象性、その明快さと単純さこそ大きな自然に対抗して、しかもそれを生かすことの出来る形式なのです。
借景式庭園というきわめて特異な、しかし驚嘆すべき技術は、繰り返して言いますが、おのれの小さい場所に箱庭的な模写自然をつくりあげるのではなく、大自然そのままを引きずり込んでしまうのです。手前のわずかな仕掛けによって、遠い大自然が強引に引き寄せられ、小さいスペースにはまってしまう。と同時にまた、せまい人工のアレンジメントは広大な自然に溶けこんで、びょうぼうとしたひろがりと気韻をただよわせはじめます。
つまり、大空間と小空間をギリギリまで異質として対立させる。その張りつめた関係は、それが互いに異質であればあるほど強力にはたらきあって、一つのありふれた平凡な自然空間を、新鮮で驚異的な、芸術空間におきかえてしまうのです。
ところでその媒介となっているのは、二つの異質の空間におかれた、空の部分です。
さきほど私がほんとうの借景式というものは、身近にある庭と遠景とのあいだが、断絶しているのが条件だと言ったのはその意味です。たとえば平原であったり、谷間であったり、あるいは低い土塀とか垣によって切りとられる。
二つの対立的な空間の間を、自然に連続させる森や山つづきなどがあったのではぶちこわしです。
それらは、まったく不必要な邪魔者となって、異質な対決をうしなわせ、すべてを素朴で無感動な自然にもどしてしまうからです。
山並みと屋敷林が遠景に繋がって見えるはずが、曇って山が見えない・・・
だけど、近景の住宅を遮蔽し美しいドウダンツツジの生垣になりました。
その脇で景色を作ってくれている、柿も今年は大豊作。
景色に彩りを加えてくれる程度の軽い剪定をしながらも、収穫量はびっくりするほど。
お隣の奥様から、「この前も三原さん剪定に来ていたみたいだけどどこを切ったの?」と言われたとのこと。
僕にとってはとても嬉しい褒め言葉。
剪定したのか?してないのか?だけど綺麗になったような気がする。ってのが庭を剪定する上での理想です。そんなさりげない手入れを心がけます。
お庭のあじさいも秋色に染まってとても綺麗でした。